物事が発展し、成功を繰り返し、ある程度停滞をはじめると、全体がそこに行きつくまでのプロセスを把握できる様になる。そして人はそのプロセスを追うようになる。 繰り返し、追っているうちに間違っていない事を確認し、マニュアル化する。 ここに行きつくまでに、多大な知恵を絞り、成功をして感動がある。この本質をよく解り理解している者は良い、と言うか問題はない。 後に続く者も、マニュアルを追わずに、本質を見抜き行動出来る者は良いのだろう。しかし、大半はそうでもない様だ。 マニュアル、法律、類纂が増えれば増えるほど、知恵は使わなくなり、型にはめ考える様になる。 たまに起きるパプニングなどは、攻撃も内に向かい、型を知らない者や、それにはまらない者、考え方の違うものにのみ矛先が向く。そうしているうちに、彼らの世界は狭くなっていく気がする。そして、それらに縛られ、徐々に自分の身動きも取れなくなって行く。 そして、いつしか本質が見えていない者達ばかりになり、誰しも型やその停滞を破ることは出来ず、自ずから上限を設定して気付かずにいるのだろう。かといって、本質のみを求め、マニュアル化された行動を必要以上に嫌っては、理想を追いすぎ、排他的となり、他と交われなくなり、傲慢になり孤立してしまう気がする。 それは、真実とは程遠い形なのだろう。
山は(人は)、初心を忘れず、本質を見る知性をもっていなければいつか死んでしまうのだろう。 孤掌鳴難と言う言葉もあるが、人と分かち合い、助け合う中に叡智が存在し、物事の本質が見えるのかもしれない。
…と言うことで今年の書はこれです。 |